海外との交易関係を維持し、後には明治維新の中心勢力となる鹿児島藩だが、じつは、幕末・明治期の戦禍等によって、鹿児島にあった多くの歴史資料が失われている。17世紀中期鹿児島藩の税制、金山開…
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家老中からの諮問にこたえ、荒尾・内田・坂下・大濱の四手永は大損亡、御蔵納年貢は前年比二千石余の減収とはなるが、これは「御内検衆、御免横目衆幷惣庄屋共」が精一杯の行政的努力をした結果だと…
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本文書および623文書より、家老中が郡内統治の実情を積極的に把握しようとしていることがわかる。また郡奉行による惣庄屋衆の恒常的管理は、惣庄屋跡職の適切な人事判断に役立ったことが知られ、転…
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原城(「有馬之城」)内は敵地だが、城の塀から外は「皆上様之御領」であるから、山狩衆は決して濫りな行為がなきよう命じられるべし。上使からも監察官を出す(第一条)。山狩りが済んだら島原城へ…
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山狩りとともに原城の石垣破却に着手! 山狩り現場へ雑兵2000人を派遣し、鉄炮200丁と馬廻衆(忠利や家老衆の親衛隊)から50人を付ける。石垣壊しの現場には、作業にあたる人員(「役人」)500人と…
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虫損が著しかった文書が、修復によって大半が判読できる状態に甦った。 脱出したキリシタンを対象にした原城周辺の「山かり」が、落城直後から始まっており、細川軍の各組(軍団ユニット)からも人…
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21世紀の奇跡 天草四郎の最期を伝えるオリジナル文書! 四郎の首は幕府からも認められ、細川家での論功行賞の結果、陳佐左衛門はじつに知行千石を賜った。阿鼻叫喚の原城内で陳本人が書いた指出の…
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城攻めに加わったすべての大名家及び幕府衆らの陣が色分けされ(細川家は赤)、塀際の堀道など籠城側の防御施設も多く書き込まれている。伝来状況からみて、松井興長らが統括する細川家の論功の場で…
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雑兵の軍団、天草・島原へ 900人のうち「馬乗」(知行取)はわずか29人に過ぎず、あとは鉄炮、弓、鑓などを担当する歩兵であった。わけても注目されるのが、歩兵のうち「歩若党」が117人、「雑兵」…
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寛永12年(1635)6月21日、諸大名が江戸城御広間に残らず召し出され、起草した儒者林羅山が読み上げた。その後、細川家ではすぐに写して親しい旗本榊原織直、仙石久隆、曽我古祐に廻した。各大名家…
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『綱利公御家譜』(永青文庫所蔵)によれば、江戸城の公儀普請は細川光尚が在世中から希望していたが叶わず、次の綱利の代になって、後見人の小倉藩主小笠原忠真などの口利きで実現したという。明暦…
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宛所の坂崎内膳は忠利の側近である。 三斎(忠興)隠居領や出家した三斎長男休無(忠隆)の給地、それに寺社領は免除、忠利御供衆のうちでも借銀の有無等が勘案されて、船頭衆、職人衆、御鷹師衆に…
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