大坂普請について幕府から要請された御法度は、御普請場では自分は勿論のこと、侍だけでなく中間に至るまで喧嘩・口論は一人も出さない、もしその場に居合わせても味方しない、槍・薙刀などの長道具…
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本史料で大坂城石垣普請の細川家の根石置きが5月11日であったことが明確になった。資金の調達、石切・石出しの人夫の確保と切迫する作業など、金もくれずに急がせる、石切り人たちの撤収にあせる石…
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大坂普請での主要な石切場であった芦屋での石切、石出の規模、確保した石には番人がついたこと、700人も収容できる小屋場の様子、石切場に鍛冶がいること、また「のミ(鑿)」「矢けんのう(玄翁)…
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元和六年、小倉藩細川家は幕府の大坂城普請の手伝いを命じられ、正月に早速小倉を出船し、芦屋の石場で石を獲得し、大坂城代阿部正次屋敷裏の丁場で虎口の石垣を担当した。忠興時代の公儀普請の史料…
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成敗直後、国元の家老衆に、事件の具体的な状況・証人を明記した七か条の釈明書を書き送って、父への取り成しを頼んだ。 本史料には、今まで詳しくは判らなかった名古屋城普請の多くの情報が含ま…
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幕府の普請奉行から発表された内容を細川家の普請奉行が4月18日の日付で小倉の家老衆に速報したものである。本史料の発見で、名古屋城天守台の石垣は加藤清正一人が担当したと伝えられていたことが…
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駿府城普請掟の原本としては毛利輝元制定のもの(毛利家文書)が知られ、本文書の発見はそれに次ぐもの。内容にも共通点が多く、幕府から諸大名に掟の見本が示された可能性が高い。 檀紙を二枚張り…
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長谷川は、小倉藩主・細川忠利ならびに家老中に対して、異国船が着岸したなら乗員数をチェックし、唐人の船でもバテレン密航を厳しく改め、バテレンは俗人になりすましている可能性があることを心得…
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興長の書状草案多数を綴った冊子「文案」に収録されたもの。 加賀山隼人はキリシタンでありながら、国仕置家老として九州国替え直後の細川家を支えた重臣であった。本史料は隼人の同僚であった松井…
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細川家のキリシタン家老にして殉教者として名高い加賀山隼人興良と、かつて忠興正室(ガラシャ)を介錯した小笠原少斎の子息与三郎(キリシタン小笠原玄也)について、主君の細川忠興が隼人の処刑と…
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道中の住民らをからかって、なぶり、苦しめる(「物からかい」)のは堅く禁止(第一条)。道中で住民女性に戯れ事するのは一切禁止(第二条)。略奪(「乱妨狼藉」)禁止(第三条)。糠・藁・薪・野…
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慶長14年4月、細川忠興の子息で後に細川家初代熊本藩主となる忠利は、徳川秀忠娘(実は小笠原秀政娘・忠真妹)の千代と婚礼をあげる。本文書は、時の細川家老松井康之と加々山隼人興良が忠興の意を…
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